パラダイムシフト

パラダイムシフト

「発想の転換」「見方を変える」
という意味でよく使われる言葉です。

ものの見方を変える。
     ↓
判断や行動が変わる。
     ↓
生じる結果も変わる。

分かりやすい例でよく用いられる絵が、下の二つ。

左の絵の問いは
「あなたは、この女性が何歳くらいに見えますか?」

 「20代くらいの若い女性」
 「80歳くらいのお婆さん」

右の絵の問いは
「あなたは、何の動物に見えますか?」

 「大きなくちばしの鳥」
 「目がクリクリした可愛いウサギ」

いったん思い込んでしまったら,そのパラダイムを変えることは難しい。

でも,パラダイムシフトが起きると,
自分が見えている世界は大きく変わってしまう。

大切なことは、
自分に見えている世界だけが本当の姿と思い込まずに、
別の見方で見てみようとする柔軟な心
なのかなと思います。

自分の見え方は、実は自分の経験や知識によってつくられた
自分独自の見え方であり、
違う経験や知識を持った人には、違う世界が見えている。

そういうことを少し意識してみると、
その後の行動・結果も違ってくるかも知れません。

興味がある方は、是非この本をご覧下さい。

この本を読んでいる内に,ある保護者の方を思い起こしました。

その方のお子さんは、
時々友達と喧嘩したり、ちょっとしたイタズラをしたりするなど、
教師間では、「気になる子」として話題になる子でした。

あることへの学校の対応に疑問を持たれたのをきっかけにして、
その方の学校への相談は、徐々に強い口調となられ、
所謂「モンスターペアレント」的な存在になっていました。

担任の先生と共に対応していたある時、
テレビで児童虐待のニュースを見て、
自分の中にまさに、パラダイムシフトが起きました。

その方は、シングルペアレントとして、持病を抱えながら、
二人の子どもの子育てを放棄せずに一生懸命されている。
その一生懸命さが、強い口調になっているだけなのではないか?

そう感じた私は、
そのような思いに真摯に向き合ってきていなかったことへの謝罪と
共にその子の育ちを見守る共同作業をさせて頂きたいという願いを
手紙に書いてお渡ししました。

その後、お互いの立場を尊重し合い、その子のサポートを協力していける
関係づくりをしていくことができました。

いま、こういう時代だからこそ、
自分がこうあるべきという見方と
全く違う視点を持つことの大切さを感じています。

実は、この気づきを実感させてくれる
私にとって大切なツール。

それが、方眼ノートです。

この状態、いつまで続くの?

子どもが部屋から出てこない。
暴言が多い。
ゲームばかりしている。

そういう状態が続くとき、

この状態がいつまで続くのか?

どう対処したら良いのか?

そういう不安や心配が生まれてきますね。

我が家の次男は、小学4年生の時から中学3年生まで、
ほとんど学校に行くことができず、
徐々にそういう状態が、日常化していきました。

特に中学生になってからは、シューティングゲームに熱中し
「あの子が、あんな言葉を!」とショックを覚えたことは
鮮明に覚えています。

そういう時、このままゲーム三昧の日々を送らせ続けていいのか
迷いながらも、それを取り上げてその代わりになるものが思いつかず
月日が流れていきました。

息子達が御世話になった星生学園の先生の中に
かつて数年間自分の部屋で引きこもり続けた経験を持った方が
いらっしゃいました。

その先生が引きこもりを抜け出すきっかけになったのは、

なんと

2002年に行われた「日韓ワールドカップ」

その中のあるシーンを見て、
身体の中で何かが変化し始めたのだそうです。

それは、稲本選手のゴール

何気に見ていたテレビ。
サッカーにそれほど関心があった訳でもない。

自分でも、なぜそこでスイッチが入ったのか
今でも分からないと,おっしゃっていました。

その後先生は、外国の方との交流の手伝いをしたい気持ちが高まり
韓国語を独学で勉強。

そして、韓国の方との交流を求めて
様々な場に自ら出向くように。

そして、何時の頃からか
自分の経験を活かしたサポートが出来る教師になりたいとの思いが高まり
それを実現されています。

次男も、昼夜逆転の日々が続き、
頭痛や目眩に悩まされていました。

この春、音楽の専門学校を卒業し、
見え始めた「やりたいこと」の実現のために
動き出しました。

このブログを書いている最中に、
バイトの面接を受けてきたとの報告があり驚いています。

ここに来るまでに、私達夫婦が大切にしてきたことについては
改めて、投稿させていただきます。

子どもが学校に行けない時 我が家の場合

長男が全く学校に行けなくなったのは、

中学1年の夏からでした。

小学5年の半ば辺りから、

時折休みがちになることもありましたが、

少年野球も最後までやり通していました。

4月からサッカー部に入部し、

7月の中体連が終わった間もなく、

久しぶりに喘息の発作が出たのが

きっかけでした。

夜眠れない日々が続き、

8月の半ばには、完全に昼夜逆転。

夏休みの宿題も、ほとんど手をつけることが出来ず

8月の末を迎えました。

体調を整えることを最優先することを

親子で話し合い、9月から欠席。

思春期の不安定な時期とも重なり、

イライラが募る日々が続きました。

長男には、私の鬱のことでそれまで

かなりの心配をかけてしまいました。

そういうことも、少なからず影響していた

のだろうと思います。

「全治◎ヶ月」と言って貰える骨折などのケガと違い、

こういう心の病は、いつ完治するのか、

誰にも分かりません。

本人も、家族も、深い霧の中を彷徨い

出口が見えない不安に苛まれる

そんな日々が続きました。

その時の唯一の希望の光は、

スクールカウンセラーとして

何度も話を聴いて頂いていた

ブロッコリー先生こと、

吉村先生の言葉。

「今は、完全なガス欠状態だけれど、

しっかり休養すれば、自ずとエネルギーが

蓄えられて自分の力で飛べるようになります。

それを信じて、見守ってあげて下さい。」

周囲がどんなに焦っても、

本人がその気にならない限り、

この子の未来への扉を開くことは出来ない。

本人の持っている力を信じて、

待つことを続けました。

そして、中学2年の2月。

本人が、住所を私の実家に移して

祖父と祖母の家から、私の母校に通ってみたい。

という言葉を発してくれました。

中3の4月から、佐賀市立成章中学校での

生活がスタート。

同級生も温かく迎え入れてくれ、

順調に登校していました。

程なくして、再びサッカー部へ入部。

体調面が心配でしたが、

本人の自己選択を尊重し、

送迎・応援などのサポートをすることに。

中体連までのサッカーに注ぎ込むエネルギーは、

これまでの鬱憤を晴らすかのように感じられました。

そして、8月。

再び、喘息の発作が出始めて、昼夜逆転に。

9月からは、長期欠席することになりました。

進学よりも、本人の体調を戻すことを優先に考えて

サポートを続けていましたが、

担任の先生から教えて頂いた、佐賀星生学園の話を

本人にしたところ、見学に行きたいとの言葉。

佐賀星生学園は、不登校・発達障害のために

学校に行きづらさを感じる生徒をサポートする

出来て2年目の学校でした。

オープンキャンパスで語ってくれた一期生の

自らの体験。本人にとっても、親にとっても、

希望の光が見えた瞬間でした。

そして、入学。

お互いに励まし合い、刺激し合える仲間と出会い、

高校生活を送ることが出来ました。

その後、福岡の大学編入試験に特化したコースがある

専門学校へ入学。

福岡市内で一人暮らしをしながら、遅れていた勉強にも

意欲的に取り組んでいたようです。

そして今は、北九州市立大学の経済学部で、

部活・バイトをしながら、キャンパスライフを

楽しんでいます。

その彼が、最近私に言った言葉です。

「あの頃、お父さん達が無理矢理学校に行かせようとせず、
 見守ってくれていたのは、ありがたかった。
 でも、もう少し早く立ち直るきっかけがあり、
 動き出していれば、違った進路を選択できたかも
 しれないと思う時がある。」

それを聞いたとき、とても複雑な心境になりました。

それでも、あの時は彼が動き出すのを信じて待つのが
正解だったと、今でも私は思っています。

彼が親の立場になった時、
あの頃を振り返って、どう思うか?
時の経過を待ちたいと思います。

子育てに、正解は無いのかも知れませんね。

長文になりました。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。